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2018年7月14日 (土)

まちなか倶楽部(高田屋嘉兵衛記念館)への訪問記 on 2018-7-11 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報

2018年7月11日(水)、まちなか倶楽部(高田屋嘉兵衛記念館)を訪問して写真を撮って
きましたので紹介します。初訪問です。

まちなか倶楽部(高田屋嘉兵衛記念館)の基本情報

住所:神戸市兵庫区西出町1-9 問い合わせ:078-671-6600
開館日:水曜日 開館時間13:00〜15:00
開館年月日:平成13年(2001)10月14日(完成式) 着工は同年6月4日
展示内容:高田屋嘉兵衛や地域の歴史資料を展示


上の写真はまちなか倶楽部(高田屋嘉兵衛記念館)の建物外観
西出・東出・東川崎の3町がまちづくり協議会を結成しボランティアで運営されています。
最近は竹尾神社の近くの障害施設の方が水曜日に開館の面倒をみられています。
神戸芸術工科大学環境デザイン学科川北研究室の皆様、建築家の武田則明さん、馬田工務店
現場責任者の増田さん、神戸市住宅局の皆様などの協力により当初(2001年)は
西出町歴史資料館として建設されました。
また、隣接してまちなか緑地があり、かっては司馬遼太郎に所縁の菜の花が植栽されいました。


上の写真は西出東出まちづくり協議会 入江の歴史研究会が作成された
西出町、東出町のまち歩きマップで、この中に赤い星印で高田屋嘉兵衛記念館
(まちなか倶楽部)の位置が示されています。


上の写真はまちなか倶楽部(高田屋嘉兵衛記念館)の敷地内に設置の手水鉢で
文政旧丙戌年仲冬浣日と書かれていることから
文政9年(1826)11月10日の手水鉢であることが判ります。

まちなか倶楽部(高田屋嘉兵衛記念館)の内部の写真紹介の前に高田屋嘉兵衛について
略歴を記しておきます。

上の写真は函館市の高田屋嘉兵衛銅像
出典:2016-3-31 BS?????? 英雄たちの選択「開け!北のフロンティア〜熱血商人・
                         高田屋嘉兵衛の挑戦〜」

上の写真も有名な高田屋嘉兵衛の絵
出典:上記と同じBS??????の英雄たちの選択


上の写真も高田屋嘉兵衛像(ゴローニンの書「日本幽囚記(独語版)」より)
出典:2016年特別展「江戸時代の兵庫津」(兵庫県立考古博物館)Page60

高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)は

明和6年1月1日(1769年2月7日) 、淡路島
(現在の兵庫県洲本市五色町都志村)の農民の子として生まれる。
寛政2年(1790)22才で兵庫の西出町に移り船子。
       堺屋喜兵衛のもとで樽廻船の水主として活躍
寛政4年(1792)24才で船頭。
  江戸までの新酒輸送で一番乗りを競う新酒番船で優勝するなど優秀な船乗りであった
寛政8年(1796)辰悦丸(1,500石船)を酒田で建造し、船持ち船頭となる。
       当初は和泉屋伊兵衛との共同出資であったがのちに譲り受けた

上の写真は七宮神社奉納の辰悦丸の模型(上述「江戸時代の兵庫津」より)
  西出町に諸国物貨物運漕高田屋嘉兵衛の看板をあげていた。
  上方の塩、酒、綿糸などを積み込み日本海航路の阪田や越後でそれらを販売し
  米を買い入れ蝦夷地で売るという商売が当たり巨万の富を得る。
寛政10年(1798)函館に出店を開き、函館の基盤整備に私財を投じた
寛政11年(1799)近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの幕府役人と接触し、
            信を得て蝦夷地交易を許可される。
            幕命で蝦夷地御用船頭となり択捉島への航路を開く
寛政12年(1800)択捉島の漁場を開く
享和元年(1801)幕府より苗字帯刀を許されている
              (蝦夷地常雇船頭に任じられる)
文化3年(1806)箱館の大火の折、被災者の救済活動と復興事業を率先して行う

文化9年(1812)幕府によりロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンが捕えられた報復として、
     高田屋嘉兵衛は国後島でリコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。
      注)P.I. リコルド(1776-1855)は当時ディアナ号副艦長
     ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、
     ロシア側を説得して翌年(1813)帰国。
文化10年(1813)帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無い
     ことを納得させ、人質解放に尽力した。
     日ロ双方に対し、献身的に折衝し、両国から賞賛された。
文政元年(1818)事業のすべてを弟の金兵衛に譲り、故郷の都志に隠居
           故郷の港湾改修などに協力

文政10年4月5日(1827年4月30日)59歳で生涯を閉じる。

これからいよいよ本題のまちなか倶楽部(高田屋嘉兵衛記念館)の内部の写真紹介に
入っていきます。


上の2枚の写真は壁面にぎっしりと掲示の高田屋嘉兵衛に関する資料と地元資料


上の写真は寄贈された船舶関連の展示

地元ゆかりの人に高田屋嘉兵衛・工楽松右衛門・東山楷夷・中内功・別車博資・川西英・
川西祐三郎・横溝正史・竹中郁・有馬大五郎・池長孟の各氏がおられます。

上の写真は高田屋嘉兵衛に関する掲示


上の写真は東山楷夷に関する掲示


上の写真は川西英に関する掲示


上の写真は横溝正史に関する掲示


上の写真はみなとの祭に関する掲示


上の写真は入江小学校に関する掲示


上の写真は川崎造船所に関する掲示


上の写真は高田屋嘉兵衛の歌

これでまちなか倶楽部(高田屋嘉兵衛記念館)の写真紹介は終了し周辺の高田屋嘉兵衛
所縁の場所を写真紹介します。

高田屋嘉兵衛本店の地記念碑

上の5枚の写真は高田屋嘉兵衛本店の地記念碑(ポケットパーク)

下は説明板の記述です。
高田屋嘉兵衛と西出町のつながりは深く、寛政2年(1790)、淡路島から来住した
嘉兵衛は、当地で船乗りとしての頭角をあらわし、嘉兵衛が引退する文政5年(1822)
まで、高田屋の本店は西出町に置かれていました。
嘉兵衛は、津名郡都志本村に生まれ、22歳のときに西出町ん廻船問屋・堺屋喜兵衛の
もとに身をよせ、もちまえの勇気と努力によって、わずか4年後には、千五百石の
辰悦丸を建造し船持ち船頭になりました。やがて廻船問屋として独立し、蝦夷地(北海道)
の開発、日露間の紛争の解決などに活躍し、兵庫津の繁栄につくしました。
嘉兵衛が本店の地に定めた西出町は、ふるくは「佐比江の入り江」が深く入り込んだ
浜辺でしたが、江戸時代の前期に、兵庫津の出町として町場が形成され、北前船まどの
廻船がさかんに兵庫津へ寄港するようになると、「佐比江の入り江」は船入り江(北船入)
として活況を呈するようになりました。
この碑のすぐ西側には、明治中期まで船入り江がありました。
かつて船入り江をのぞんで高田屋の本店・倉庫などが建ち並んでいたと、
古老の話がのこされています。
2003年3月 西出・東出・東川崎地区まちづくり協議会

参考として元禄9年(1696)9月、坂田又右衛門が尼崎藩に対して提出した絵図(部分)と
神戸市埋蔵文化財センター「兵庫津遺跡第52次発掘調査報告書」の地図を添付します。
(下の2枚の写真)

佐比江の入り江や川崎船入江さらに旧湊川が描かれています。

竹尾稲荷神社


上の写真は高田屋嘉兵衛(1769-1827)の顕彰碑です。
昭和28年(1953)入江育友会が主導し入江婦人会が協力し、当時の原口神戸市長
の題字で建立され入江小学校の校門脇にあったものを平成5年(1993)11月吉日
竹尾稲荷神社に移設されました。


上の写真は竹尾稲荷神社の遠景

高田屋嘉兵衛が奉納した石灯籠


上の写真(2枚)が高田屋嘉兵衛の奉納の石灯籠。
奉納された時期は文政7年(1824)。
ちぢみ地蔵としても有名な鎮守稲荷神社の鳥居の外側に
高田屋嘉兵衛が奉納した石灯籠があります。

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